新島八重と鶯餅
動乱の時代 会津から京都へ
新島八重(にいじまやえ・1845~1932・旧姓 山本)は、会津藩の砲術指南の家に生まれ、慶応4年(1868)、会津が薩摩と長州を中心とする新政府軍に攻められると(会津戦争)、自ら銃を取って奮戦します。しかし激戦の末会津は降伏。父や弟を戦で失い、移住した京都で新島襄(にいじまじょう)と出会い結婚します。
襄は同志社英学校(後の同志社大学)を設立し、八重も学校の運営や生徒の世話にあたったほか、同志社女学校(後の同志社女子大学)の設立にも携わりました。甘いもの好きの襄のためにジンジャーブレッドなどの洋菓子をつくり、学生たちには試験後に汁粉をふるまうこともあったといいます。
茶人・新島宗竹
八重が46歳の明治23年(1890)、襄が病で亡くなります。最愛の夫を失い悲嘆にくれるものの、八重の歩みは止まることがありませんでした。数年後には篤志看護婦として日清戦争の傷病兵の看護に奔走、また、本格的に裏千家茶道を学び、家元から「宗竹」の茶名を許されるまでになります。
男性社会だった茶の湯の世界で、女性が重要な役割を担い始めた時代、八重は女性茶人のさきがけとして、多くの門弟を指導し、家元の行事に参加するなど、晩年まで活動を続けます。
新島邸・新年の茶会
八重が催した茶会の記録はいくつか残っており、裏千家の機関誌『今日庵月報』の記事では、大正10年(1921)1月20日、新島邸での初釜の様子が紹介されています。
この日、用意された主菓子は鶯餅、干菓子は松の葉と短冊形のものでした。一般に鶯餅は、餡を包んだ求肥の両端をつまみ、青きな粉をまぶし、色と形を鶯の姿に見立てた早春の菓子。通常のきな粉は大豆の粉ですが、青きな粉は別名鶯粉とも呼ばれ、青大豆を使います。とても香りが良いのも魅力のひとつでしょう。
古来、鶯は梅の花とともに春の訪れを象徴する風物として愛されてきました。その年初めての鶯の鳴き声は「初音(はつね)」と呼ばれて縁起が良いことも、初釜の菓子に選んだ理由かもしれません。
茶席の床には「会津国主姫君」による和歌の短冊がかけられていました。これは会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の義姉照姫の作と思われます。会津戦争で籠城した女性たちを指揮していたのが照姫であり、八重は京都にあっても会津への愛情を示し続けたのでしょう。
※連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。
参考文献
筒井紘一『新島八重の茶事記』 小学館 2013年
『今日庵月報』133号 今日庵 1921年
著作権について
虎屋のウェブサイト上に掲載しております内容(上記の記事内の文章を含みます)に関する著作権その他の権利は虎屋が有しており、無断に複製等行いますと著作権法違反等になります。当ウェブサイトに関する著作権等については、以下のページをご覧下さい。














