清河八郎と旅中の菓子

江戸時代後期、「弁慶力餅」を売る茶店の様子。旅人が「うまいもち(餅)だ」と言っている。
十返舎一九『金草鞋』国文学研究資料館蔵
国書データベース https://doi.org/10.20730/200004214 より
幕末の志士の旅日記
清河八郎(きよかわはちろう・1830~63)は、庄内藩清川村(山形県庄内町)の造り酒屋、齋藤家の生まれ。18歳で江戸に出て、剣術や学問を学びつつ各地を遊歴し、安政元年(1854)に本名の齋藤正明から清河八郎と名乗りを変えて「清河塾」を起こします。多くの人と交わっていくなかで、国政に関心を持つようになり、尊王攘夷の志士として名を揚げていきますが、幕府から危険視され34歳の若さで暗殺されました。情が厚い人物としても知られ、安政2年3月から10月にかけては孝行のため、母、齋藤家の下男とともに伊勢神宮のほか、関西、四国などを巡る旅に出ます。その様子を自ら書き留めた旅日記が『西遊草(さいゆうそう)』です。
旅には「甘いもの」を
日記を見ていくと、寺社や名所旧跡を訪ねるほか、土産品を買い込んだり、大坂や江戸で興行があれば母が大好きな芝居見物に行ったり、街道の宿駅や逗留した町では、酒や料理、名物菓子を楽しんだりと豪勢な旅だったことがわかります。郷里を出て、ひと月ほど経った頃、一行は柏崎(新潟県)を過ぎた山間にある茶店※で弁慶力餅を注文します。弁慶が掘り出した泉の水で作った餅は安産の守りとなる、と茶店の老婦が語った由緒を八郎は「如何(いか)さま古跡」と一蹴。しかし、山坂を登ってきたこともあって餅は「至て旨く」、おいしさのあまり一盆平らげ「満腹して苦しみにたへず」だったそうです。
一方、こんな話も。曽根(兵庫県)に向かう山頂の茶店では、暑さのため八郎たちは砂糖水を注文し飲むのですが、会計の際1杯20文ずつと言われ、あまりの高さに「貪婪(どんらん)の深き、禽獣同前、面皮(めんぴ)のあつき仕方なり」と憤激します。
江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、江戸など都市部では、白砂糖などを入れた冷や水は一碗4文。さらに8文、12文と値段を出せば砂糖の量を増やしてくれるとあります。地域や年代によって差はあると思いますが、八郎が江戸で暮らしていたことを考えると、高値と怒るのも無理のない話でしょう。ただ、事前に金額を確認しなかったと反省もしており、まずは値段を聞くことが旅行中の「心得の一事」だと書いています。
旅の最後、八郎はいろいろな目にあったが、家に帰ればそれも楽しみになると振り返っています。災難だった砂糖水事件も、よい思い出になった、ということでしょう。
※茶店は北国街道の難所、米山峠(柏崎市)の亀割坂にあった。
*連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。
参考文献
清河八郎著 小山松勝一郎校注『西遊草』岩波書店 1993年
小山松勝一郎編訳『西遊草 清河八郎旅中記』平凡社 2006年(オンデマンド版)
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