三代目市川市十郎と団子細工
稀書複製会編『新文字ゑつくし 新板』(米山堂、1930年)より 国立国会図書館蔵
上方歌舞伎の人気俳優
三代目市川市十郎(いちかわいちじゅうろう・1837~1920)は、本名を市村福太郎といい、天保8年(1837)、京都の上賀茂に生まれました。九代目市川団十郎の門下に入り、市川福太郎を名乗ったのち、明治8年(1875)、三代目市十郎を襲名し大阪に定着。明治43年には息子に市十郎を譲り、二代目市川眼玉(がんぎょく)となりました。
眼も輪郭も大きく、立派な顔をした役者だったといい、華のある容貌や迫力ある演技が、大阪に限らず東京の興行でも話題になりました。「山門の石川五右衛門」「熊谷陣屋の熊谷直実」「馬盥(ばだらい)の武智光秀」等を得意とし、亡くなる前年、84歳で引退興行を行うまで現役で活躍しました。
団子細工が繋ぐ縁
順風満帆な役者人生にも見える市十郎ですが、その名を継ぐ前、一時役者を断念し、魚屋、八百屋、小間物屋など、職を転々とした時期がありました。
なかなか向く職が見つからないなか、30代前半で器用さを生かしてはじめたのが、団子細工の行商。『戯場関遠近』(しばいごやせきのおちこち)によれば、明治6年(1873)には下関の新地(現・山口県下関市新地町)の芝居小屋前に現れ、たちまち人気を集めたといいます。
商売の内容は、客寄せに一人芝居を行い、団子細工を売るというもの。団子細工とは、着色した新粉(米の粉)生地をさまざまな形に作ったもので、関東では新粉細工(しんこざいく)とも呼ばれます。市十郎は、梅やお多福などの形にした団子を竹串の先に刺して売っており、特に梅は非常に美しかったそうです。豆絞りの手ぬぐいを締め、着物の裾を角帯の後ろに挟み、白足袋に草履という小粋な出で立ちで漆塗りの団子箱を担ぐ姿に、観客が科白(せりふ)に聞きほれるほどの芝居の上手さも相まって、新地の名物男となっていました。
半年ほどで役者の世界に戻りますが、それから約10年経ち、市川市十郎一座の座頭として下関へ地方巡業にやってきた際には、団子屋が役者として帰って来たと新地の人々を大変驚かせたといいます。以降、下関の興行では、屋号の「小紅屋」(こべにや)ではなく「団子屋」と掛け声がかかることを、本人は少し苦々しくも感じていたようですが、街の人々としては、親しみを込めて応援する気持ちが強かったに違いありません。団子細工が繋いだ縁が、役者としての人気の一端も担っていたのでは……と想像されます。
参考:新粉細工の模型(作成:小川三智之助 虎屋文庫蔵)
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参考文献
『現代俳優鑑』演芸画報社 1918年
佐藤治『戯場関遠近』1938年
『馬関覚え帳』朝日新聞下関支局 1954年
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