藤原(二条)定高と甘い雪

平安時代からあったかき氷
かき氷の歴史は古く、清少納言が、甘葛(あまずら・ツタの樹液を煮詰めた高級な甘味料)をかけた削り氷(けずりひ)を味わっていたことが知られます。当時、氷は氷室(ひむろ)に貯えた希少品で、貴族のみが楽しめました。おもしろいことに、冷たいデザートはかき氷に限らなかったよう。時代は下りますが、鎌倉時代の貴族は雪に甘葛をかけて食べていました。なかでも藤原定高(ふじわらのさだたか・1190~1238)はこの甘味に目がなかったとか。鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』にあるエピソードをご紹介しましょう。
雪のプレゼント
「ある年の2月、『新古今和歌集』の撰者で歌人の藤原家隆が同じく歌人の藤原基家の屋敷で、甘葛をかけた雪を勧められました。賞味した家隆は「まだあれば、雪食いの定高に」といい、雪は硯蓋(すずりぶた)に盛られて定高のもとへ。御礼に届いた歌、「心ざし髪の筋ともおぼしけりかしらの雪かいまのこの雪」(頂いた真白な雪はまさに、かしらの雪(白髪)の風情かと思いました)に、2人はとても感心しました。」
年月は不明ですが、原文にはそれぞれの官位が書かれており、生没年や経歴から、家隆は70代後半、基家は30代中頃、定高は40代後半と推測できます。家隆の「雪くい」という言い方は、貴族にしては品がないように思えますが、親子ほど違う年齢差もあって、遠慮がなかったのでしょう。旧暦の2月は新暦でいえば3~4月頃。雪は氷室から取り出したと考えられ、この機会に好物を食べさせてやりたいという、年長者の心遣いもうかがえます。思いがけない贈り物に、定高はさぞかし喜んだのでは? 和歌に感謝の気持ちを表していますが、「志(心ざし)の髪の筋」には、「わずかなものでも心がこもっているなら、それを汲み取ってほしい」という意味があり、家隆の心を読むようなニュアンスも感じられます。雪から家隆の白髪を連想し、「志の髪の筋」に結びつけた機知に、2人は感心したのではないでしょうか。
承久の乱では幕府方に
雪のデザートをほおばるとは、のん気な人物と思いたくなりますが、定高の人生の前半は、穏やかなものではありませんでした。承久2年(1220)、30才ほどで権中納言になるものの、翌年の承久の乱では後鳥羽上皇の挙兵に反対し、鎌倉幕府側につきます。幕府が勝利しますが、かつて仕えた後鳥羽上皇は隠岐に配流。親しくしていた人も亡くし、定高は悲嘆に暮れたことと想像されます。しかし、九条道家に重んじられ、政治の中枢で活躍することに。機転がきく、親しみやすい人柄故、人望も厚く、時代の荒波を乗り切ることができたのではないでしょうか。後鳥羽上皇の皇女を別邸に引き取ったことも彼の誠実さを物語っているようです。
※二条と号したのは、二条東洞院に屋敷があったためという。ここでは藤原姓に統一した。
※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
参考文献
『古今著聞集』 日本古典文学大系84 岩波書店 1966年
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