滝沢路と法事の牡丹餅

戯作者の「筆」となる
江戸時代後期の戯作者、曲亭(滝沢)馬琴。『椿説弓張月』ほか数々の作品を世に送り出しますが、目を患って『南総里見八犬伝』の途中から執筆が困難になり、口述筆記に切り替えます。白羽の矢がたったのは息子・宗伯の妻、路(みち・1806~58)※。文学は素人だったため作業は困難を極めますが、粘り強い指導を受けつつ血のにじむような努力を重ね、馬琴の作家活動を支えていきました。また、路は滝沢家の営みを記録した日記も受け継ぎ、嘉永元年(1848)に馬琴が亡くなった後も書き続けます。特に翌2年6月から路が亡くなる安政5年までの記録は「路女日記(みちじょにっき)」と呼ばれ、滝沢家の歩みをたどることができる貴重な史料となっています。
牡丹餅で供養
「路女日記」を見ると、滝沢家では年中行事や人生儀礼を欠かさなかったのはもちろん、近しい人々と菓子や料理を贈りあうなど、普段からのつきあいも大切にしていたことがわかります。これは馬琴が生前に率先して行ってきたことで、路もその振る舞いを忠実に守ったといえるでしょう。とりわけ先祖供養は念入りで、祥月命日に故人の肖像画を掛けて供え物を用意し、精進料理を食べ、菩提寺にお参りに行くというようなことを、ほぼ毎月行っています。
四十九日や年忌法要を行う場合は大がかりで、牡丹餅を作るか、菓子屋で饅頭や餅菓子などを誂えるかして、親戚、知人、近隣の人々へ配りました。嘉永2年11月6日の馬琴の一周忌の際には、法要の前々日に14軒分の牡丹餅を作り、人足を使って届けています。通常は家族で牡丹餅を用意しますが、このときは珍しく息子の太郎が勤めていた幕府の御持筒組(おもちづつぐみ)の同僚も手伝っています。実は、法要のひと月ほど前に太郎が病により22歳の若さで亡くなっており、路は「少しも心なく、只亡然たる事」「落涙止時なく、実其身も忘るゝほど」という状態でした。同僚が手伝ったのは、失意の底にある母親を気遣ってのことだったのです。
その後も、娘の幸(さち)に迎えた養子との間で起こった離婚騒動に巻き込まれたり、版元から思いがけず『仮名読八犬伝』の抄録を依頼されたりと、山あり谷ありの人生でしたが、馬琴から受け継いだ滝沢家の供養をおろそかにすることは決してありませんでした。仏前に牡丹餅を供える時には、日頃の厄介ごとを少しだけ脇に置き、心静かに先祖へ感謝の心を向けたことでしょう。
※かつては息子の宗伯が代筆をしていたが、天保6年(1835)に亡くなってしまったため、筆記をつとめるものが不在となっていた。
※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
参考文献
柴田光彦、大久保恵子編『瀧澤路女日記』上下巻 中央公論新社 2012、2013年
暉峻康隆ほか編『馬琴日記』1~4巻 中央公論社 1973年
曲亭主人「回外剰筆」(『南総里見八犬伝』下巻 博文館 1907年)
西條奈加『曲亭の家』角川春樹事務所 2021年
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